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庄内釣りの名人の一人であった鶴岡の在住の本間金雄氏は黒鯛の湧きを6回も体験しているという數少ない昭和の名人だ。更に鱸の湧きの経験を入れるとなんと9回に及ぶという。
黒鯛の六回の湧きの内、なんと暮坪の磯場付近での体験が半数を占めていると云う。最初の湧きの経験は、北庄内の吹浦の十六羅漢の磯場で、その時「自然の力は偉大であり、神秘的であり、その自然に対して神かがり的な何かを体感したようだ」と述べている。そんな彼は暮坪での湧きを経験してから後、何か湧きに対する予知と云うか予感が出来るようになって来たとも云う。
彼の長い釣の経験から9月の声を聞いた頃から上磯の黒鯛は、次第に南下を始めるのだそうだ。渡り黒鯛は何班かに別れ群れを作る。そうして食べ物が豊富とか、適温の内はその場に留まり、群れの存続が危うくなった時に始めて移動を開始し次第に南下して行くと云う説である。
彼は日曜釣師であった。昔の釣人は現在と異なり車の移動ではなく、唯一の交通手段であった汽車と足を使ったものであった。その為当然のように釣場の状況を知る手段は、数日前からの天気予報と友達からの情報しかない。そこで長い経験と天気予報での釣場の選定が、釣れるか釣れないかの絶対条件となった。その事が勘を養い、この条件ならこの場所でと云う絶対に釣れる釣場の選定を行う。つまり釣れる場所の予知能力が働くようになる。
彼の考えでは黒鯛は渡り鳥と同じように長距離の移動の時は、必ず集団行動をとると云う考えに達した。吹浦から湯浜までの間、砂地の海であるから酒田以外での腹を満たす餌場はなく、休憩所もない。黒鯛は浅海に棲む魚であるから、陸から数百m位の沖を移動するものと考えられている。
湯野浜の釣り人の間で古くから長磯に二才の渡りが入ってから、必ずその数日後に黒鯛の渡りが来る事が知られていた。その結果を踏まえれば、あながち吹浦から湯野浜まで黒鯛が来るのだという神話、説も考えたくもなる。ただ、最近の状況を見れば、海水浴場の沖には必ずと云って良いほど浜辺の砂の流出を防ぐテトラポッドが、あちらこちらに点在している。また浜から沖に向かってのテトラも数多くある。為に黒鯛の好む餌も豊富にあることから、集団そのものが小さくなってきているとも考えられるのである。
渡りの黒鯛、二才などはまだ存在するがシノコダイの渡り、沸きは昭和20年を最後に今間金雄氏も見ていないと云う。黒鯛の稚魚の絶対数が減って来たのは、環境の変化なのか、はたまた釣り人の増加が原因なのかは分からないとしている。
何故、シノコダイ、二才、黒鯛が別々の集団で渡りという行動を起こすのであろうか?ひとつの考えはシノコダイ、二才を一緒に飼育すると、大きな二才が縄張りを主張し攻撃を行い最後にはシノコダイを死に追いやる事が分かっている。この結果を踏まえ考えて見ると、渡りや湧きがあった時に、必ず同じようなサイズが揃うことは当たり前の事と考えても差支えが無いのではなかろうか?との結論である。
又湧きの時に釣れる黒鯛の引きはとても強いと前回述べた。丁度金雄氏が体験したエピソードがある。昭和30年代の初め、湧きがあったと云う情報が入り友達と次に入るであろう岩場を予想し釣行に出掛けた。ナイロンが出始めの事でまだ弱かった時代である。三名の者は5号を使う事を申し合わせた。磯場に着き、釣り始めてしばらくすると案の定黒鯛が釣れ始めた。それを見ていた4人の釣り人は割り込み釣り始めた。その4人が4人ともせっかく釣り上げた黒鯛をバラしてしまう。4人が4人共ハリスが細いのだ。4人が4人とも黒鯛は、細いハリスでしか釣れない物と思っている釣り人達であった。それで最高でも3号のハリスしか持ち合わせてはいなかったのだ。一方の金雄氏たち一行3名は、打ち合わせの通り5号のハリスを使っており更にM氏などは、打ち合わせ以上のもっと太い8号を使っていたと云う。いくら沸きという大きな群れでもバラシが多ければ、逃げてしまう。ちなみにこの時使った仕掛けは、延べ竿二間五尺(5.10m)、テグスはハリまで6ヒロ(約9m)だったというから、典型的な庄内釣りの仕掛けであった。
鶴岡の庄内釣師達は概して太ハリスを好んで使う。何故なら技術をマスターした者はどんなにハリスが太くとも餌を咥えさす技(完全フカセで仕掛けを潮に同調させ餌を点で見せる)を持っているからだ。師匠を持たず、本で知った知識などで釣に来て居る者たちとは、まったく異なり、数年と云う長い期間に渡り師匠について実技でその技を習得し、身体で覚えている技なのだから根本的に釣りの技が異なっているのである。本来の庄内釣りの禁止事項として割り込みなどはしてはならないとあるのだが・・・。せっかくの前夜からの作戦を練りに練って岩の選定をした結果見事的中させたのに、他の釣り人に割り込まれた上にその上バラされせっかく寄せた黒鯛の群れを逃がされてはいい迷惑である。
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